2024/11/03
ここでは、いわゆる「鞭打ち損傷」について、私が長年の治療現場で感じてきたことお話します。
① 後から頚が痛くなるのは不思議なことではない?
救急病院勤めが非常に長かった(17年間)こともあり、いわゆる鞭打ち損傷の患者を
たくさん診てきました。当時、勤めていた病院の整形外科外来全体で交通事故関連の診断書を毎月100人以上書かされていました。
車同士の追突事故では、受傷直後はそれほど強い痛みがない傾向にあります。(もし受傷直後から頚に強い痛みがあれば、頚椎の骨折・脱臼を疑う必要がありますので、慎重に頚を装具で固定して救急搬送されるシーンもよく見受けられます。)
受傷直後ならば軽微な症状があるかないか程度のことも多く、その時点で頚の動きにそれほど問題がなければ、医者の立場からは外傷自体は大したことはないとの認識になります。もし直後から痛みがあればレントゲン検査もおこないますが、加齢による変化があったとしても、ある程度に頚を動かせれば、骨折等の所見まではないはずで、その結果、当初の診断書の見立ては頚椎捻挫としてせいぜい1~2週間前後の通院加療といった内容になります。
しかしながら、かなりの割合で、その後に頚部痛や可動域制限(場合によっては首を全く回せないこともあり)の増悪を訴えてくることが多いこともご存知でしょう。もちろん、そのまま何事も無く経過するケースもありますが、後から痛くなる理由に、本人たちは直後は気が張っていたからとか緊張していたからとか言われることもあります。
しかし私はそうは考えてはいません。私は受傷メカニズムに関して自分なり持論があり、「後から痛くなるのはさほど不思議なことではない」ということを、初診の時点でその持論を用いて説明することで、患者さんの不安を最低限にしておくことが、診療では大切だと私は考えています。
私は日本以外の各国の詳細については知りませんが、海外においては交通事故時の損害賠償保険制度が整っていない国があり、そこでは鞭打ち損傷の病態自体が存在しないとのことです。対して日本では治療期間が長期化し、損保会社・弁護士まで入り乱れて、結構厄介ごととなりがちなのですが、この鞭打ち損傷の治療は整形外科医にとって、関わりたくないのが実情です。
私の周辺でも、損保会社との関わりを拒む診療所もあるくらいです。整形外科関連の勉強会でも、講師の先生はほとんどが弁護士さんで、内容は整形外科医にとってトラブルにならぬよう、また見舞われたトラブルをいかに処理するのか・立ち回るべきかというものが中心です。
誰もが出来るだけ関わりたくないのであり、いかに我々が悩まされているかがお分かりいただけるでしょう。私も含めて多くの整形外科の先生方が、この不可解で理解しがたい経過をとりがちな日本の鞭打ち損傷については、どうしても後ろ向きになるのが実情です。
② 私の考える鞭打ちのメカニズム(1)
本題に入りましょう。まずは鞭打ち損傷における頚部に加わる外力の大きさを考えてみましょう。被追突時には、頚部に一体どの程度の外力が働くのでしょうか。 計算の得意な工学関連の方々が計算されており、頭の重さ(数kg+α)がどのように頚部に対して負担をかけてしまったのか、というものです。物理工学的には正しいのかもしれませんが、受傷時の状況を厳密に考えると私には疑問です。
停車中に追突された場合、単純に考えて、まず身体のどこに外力が加わるのでしょう? ほとんどの方々は頭・頚であると思うでしょう。しかし、停車中に座席と接触しているのは頚・頭ではなく、背中・臀部を含めた体幹です。トン単位の車の事故であれば、追突衝撃時には、まずは体幹がシート越しに前方向への外力を受け、否応なしに前方へ移動を開始することになります。
対して頭部・頚部は基本物理の第1法則である「慣性の法則」に従っており、体幹が移動開始する瞬間はまだ静止しています。体幹が前方移動してしまうことで、頭部は静止していても、頚椎下部が体幹ごと前方に引きずられ、頭部は土台を失うことになります。結果、頭部は達磨(だるま)落としのごとく、後方へ倒れてしまうとことになります。この一連の流れにおいては、まず始めに体幹自体の大きな重さ(M:約数10kg)の動きに関わる外力が頚椎にかかってしまうのではないでしょうか? その後に倒れていく頭の重さ(m:約数kg+α)だけを考慮するのでは不十分ではないでしょうか? あくまで、計算値ですが、体幹の重さを考慮するだけでも一桁近く大きい可能性があるはずです。
もちろん正面衝突や横からの事故もあります。これらの場合は頚部からみて体幹が後方や側方に残ることになり、方向は異なるものの、体幹の重さで逆の後方へ引きずられると考えてよいでしょう。方向は異なっても、体幹の重さが関わっているのは側方や斜め方向からの衝突であっても同じ理屈です。本来、頚部の周辺筋は、単に頭部の重さを支え・動かすための機能を担います。普段はそこへ帽子・ヘルメット程度をかぶるぐらいで、体幹・胸部を動かせるわけではなく、体幹の重さや動きを支えたり、制御したりできるはずもありません。
③ 私の考える鞭打ちのメカニズム(2)
さらに日常、頚は体幹を土台として顔・頭を動かしています。つまり頚椎は第1頚椎から第7頚椎までありますが、頭・顔を動かす場合は7個のうち上の方から動かしていますが、対して鞭打ち損傷の場合は、体幹から動かされているわけですから、7個のうち、一番下から動かされているはずです。
すなわち鞭打ち損傷では、頚椎の上位から使われ動かされるという、もっとも基本な使われ方ではなく、全く逆、つまり頚椎の下位から使われるということになっているはずです。日常と全く異なる使われ方をするわけではないため、多少の事故であっても、ヒトの頚部にとっては、相当な負荷がかかることになります。
以上から、私は鞭打ち損傷後の頚部痛の出現はやむを得ないものと考えています。ここから先は治療を考えていくのですが、その前に私が臨床の現場で経験した参考事項を提示したいと思います。
④ 脚の骨折患者は鞭打ち損傷の後遺症がない?
これは救急病院時代の経験から私が得た内容です。具体例を挙げてみましょう。
20代前半男性、バイク転倒事故で大腿骨骨折受傷。前額部(おでこ)にも打撲・挫創があり、翌日以降にはX線では異常ないものの、頚もかなり痛がるようになり、ネックカラーが装着されています。2,3日中には大腿骨の手術がおこなわれ、手術翌日からリハビリがはじまります。
最初は膝・股関節を含めて脚を一切動かせないほど痛がっています。まずはベッドで上半身をおこすだけで、手術後3日程度で脚の強い痛みは少し軽減し、理学療法士が手伝って、車イスに移乗させる程度は可能となります。しかしまだまだ骨折部が強く痛むため、首筋や顔に血管が浮くぐらいに歯を食いしばり、必死の形相となります。これを繰り返して、リハビリが進み、早ければ1週間から10日ぐらいで車イスを卒業して、その後は二本の松葉杖で病院内を散歩できるようになります。
脚のリハビリをおこないながら、約1ヶ月前後で退院することになりますが、その頃には頚の痛みはあってもほとんど気にならない状態となり、退院後の通院時には頚部はほぼ治癒した状態となります。
下肢骨折患者では、こういった治癒傾向が明確にあります。対して骨折等のない患者では、MRI等の精密検査でも異常がないにも関わらず、受傷後数ヶ月以上を超えてもなお頑固な症状が持続することに、整形外科医にとって理解できないということにもなります。次はこの謎というべき、「下肢骨折」と「鞭打ち損傷」の奥深い関係について私なりに謎解きを次に紹介してみましょう。
⑤ 握力と頚部周囲筋・咬筋との関係
私が過去に調べたデータがあり、表面筋電図という検査機器を用いて、握力と顔(咬筋#1)・頚(胸鎖乳突筋#2)・上腕部(上腕三頭筋#3)の筋出力との関係性を調べたものです。最大に近い握力を発揮すればするほど、腕だけでなく、頚・顔までも同時に最大筋力を発揮しており、75%程度の握力程度では、頚や顔は、ほとんど筋力を発揮する必要性がなかったという結果でした。
つまり、歯も食いしばるほどに握力を最大に発揮してはじめて、首周りの筋力も目一杯発揮されていることになります。先ほど例に挙げた彼は1ヶ月以上の長期にわたり、毎日青筋(あおすじ)が立つほどに、握力や腕の力を目一杯発揮させつつ自分の身体の重さを腕で支えていたことにより、頚部周辺筋の筋トレを自然に最大限におこなえていたのだと私は考えています。
よく歯科治療後に肩こり等が改善するというのを聞きますが、それはつまり、歯が悪いとしっかり噛めず、食いしばることができなくなり、その分最大の握力も発揮できないし、首筋にも力が強く入ることもないため、自然に首周りが衰え、抵抗力が減弱し、日常生活の範囲内の負荷においてもさまざまな愁訴に悩まされがちになるということではないでしょうか。逆に、歯科治療後はしっかり噛めて、強く食いしばることも可能になり、手の力とともに自然に首周りが鍛えられていくという、相関した協調関係が考えられます。
試しに二人で椅子に座って向かい合い、一方がもう一方の頭の後ろに手をやり、背筋を使って体をおこさせてみると、同じ体格同士であれば、手をやっている側の身体が容易に浮いてしまうほどです。それぐらい、健常な人の頚の周囲筋は、強い体幹筋力を頭部に問題なく伝えることができるのです。
#1咬筋(こうきん)・・・頬にある筋肉。ものを噛む際に使う
#2胸鎖乳突筋(きょうさ-にゅうとつきん)・・・耳の後ろから 胸の前・鎖骨にいたる筋肉。
#3上腕三頭筋(じょうわん-さんとうきん)・・・上腕の後ろ側にあり、肘を伸ばす筋肉
⑥ 外来での鞭打ち患者の傾向と治療の方向性
対して、外来での鞭打ち症状の傾向として、後から症状がもっと強くなるかのような話を聞き、被害者意識もあり、首回りの痛みが増悪することを強く恐れがちで、多くは頚の痛みだけではなく、両肩や腕の張り、違和感までも訴えるケースが多い傾向にあります。
彼らは肩・腕周辺さらに手先のごくわずかな響きに対しても、多少の違和感程度であっても過敏となり、それまでの日常のいつもの振る舞いに本能的に強い制限をかけてしまう傾向にある。その結果、頚周辺の筋力も短期間の間に低下してしまうことになるとみられる。
筋力が落ちてしまい、さらに頚・肩周辺に響くことをすべて拒否するかのような生活のため、より一層の筋力の低下を招くことになり、体幹の背筋力を頭部に伝えられず、向かいあって座っている相手の身体を浮かすことなどとてもできない状況に陥ることになります。
つまり、痛いから使わない → 使わないことで筋力が衰えていく → 抵抗力が減弱することでより傷めやすくなる → 日常生活でも痛みがでる → 痛みが頑固に継続する、 という好ましくない流れが容易に考えられます。
痛みという不快な感覚は慢性化することでヒトの脳に刷り込まれてしまうといわれています。私はこのやっかいな流れに陥らないためにも、最初に「後から痛くなること自体はさほど不思議なことではない」程度の説明がもっとも重要だと私は考えています。
逆に、必要に迫られて仕事を休めず、鞭打ちの痛みに耐えて仕事を続けざるを得なかったが、いつの間にか軽快したというケースも多く、この方向性にもっていくことが私個人的には、もっとも理想的だと考えられます。
つまり、痛いけど使う → 使い続けることで筋力が低下せず維持される → 抵抗力が落ちず日常生活においても傷めにくい → 徐々に症状が改善していく、という好ましい流れであり、「頚まわりの筋力」をできるだけ落とさないことだと私はみています。
痛みがあっても、多少の波を耐え、社会復帰しつつ日常生活を通し、可能な程度に事故前のレベル近くに使っていくことが、早期の痛みの軽減にはもっとも単純かつ確実な早道であると確信していますが、この流れに乗り切れない場合もあるでしょう。この世に痛みに平気な人間など存在しないし、痛みの強さも辛さの程度も個人差が大きいとみられます。しかし町医者の私からみれば、早期の回復にはこういった流れがもっとも理想的な経過と考えられます。